((はとバスツアーで上高地、飛騨高山、世界遺産の白川郷をめぐるたびに連れて行ってもらう))
2016年8月22日、23日の暑い旅行でした。

虎ノ門病院で脳下垂体の手術を2週間の最短で退院した褒美につれて行ってもらう。
観光旅行は食わず嫌いで好んでは行かない当方、今回の入院では女房に世話になり感謝して
付いていきました。

9,10号のダブル台風が目前に迫り、それてくれとテルテル坊主にお願いする事態に、
何とか9号台風は東北地方に向かい、雨被害、10号台風は迷走して温帯低気圧
になる寸前、旋回しながら大型台風になり太平洋を北上して1週間後に東北に上陸、

復活台風ここに有り



新宿駅南口と西口の中間京王デパートの前、ハトバス専用バス停から黄色いバスに

右最後尾、ゴトンゴトンと揺すられて、チビトレ並みにさあ出発

諏訪湖PAで休憩、お昼用にカレーパン、おにぎり、上高地で食べる

高速を降りて飛騨街道を梓川沿いにくねくね、向日葵畑、道沿いに稲核、水殿、奈川渡ダム

ダムサイトから釜トンネルを右に上高地に着く

梓川にたどりつく、穂高には雲がかかり山並は見えない。冷たい梓川の流れ
澄み切った空気、すがすがしい高原、ずうっといたい高原の気持ちよさ

かっぱ橋、由来が書かれた案内


飛騨がわから雲が湧いてきてなかなか奥穂が顔を出さない、

水生植物、桜に似た花が咲くそうな、水桜藻だったかな?

かっぱ橋をあとに、想像も出来ない盆地の暑さに突入、

バスターミナルの近くに上高地郵便局がある。記念はがき(紅葉の涸沢)記念切手のシート
(河童橋の切手)を貼って、上高地のスタンプで自分に出す、女房は別の絵柄、切手で自分に


((すずしい上高地を後にして有料道路で飛騨高山へ))

駅前の提携ホテル、ロビーの高山祭りの山車、レプリカか?

晩飯まで時間が有るので散策に、暑い、

朝市の出る通りの下見、古町並みをそのままに、同じような土産物屋
橋の欄干のオブジエ,ゆわれが書いて有るが覚えられない

晩飯、酒でバタンキューで朝、焼岳、穂高方面から日の出

さあ朝市にでかけましょう。今では珍しい鋳物消火栓

朝市では苞葉味噌セット(乾燥した葉、麹味噌)大豆を肉の様
にした精進料理、赤カブ漬物,小さい茄子、山菜の漬物、
見たこと無い装飾用かぼちゃ

買いたい物を見つけてご満悦

朝市の返りに近くの八幡宮に高山祭りの元締めだそうな
立派な神社、

氏子は一刀彫の巧みが多い様で門前に店を構えている
今ではめづらしい鋳物ポスト



((白川郷に行きました))

何という暑さか!盆地だからかフエーン現象かのせいか、半端ではない
高山白川は1時間位、普通の山間の集落と思ったのは私だけか

つり橋なんだけどワイヤーは床下?川渡つていざ白川郷に

コスモスが咲いて季節は秋なのに、この暑さは何だ、マイクロバスで展望台
に200円で連れて行ってくれる。

集落全体が見渡せる、稲穂が色付いて秋なんだけど、真夏、暑い、木陰をさがす、
結婚して35年するとこおなる。写真を買うと冬のライトアップにハトバスがあるとの
アドバイス、冬にこの景色が取れたらすばらしい。

帰りは歩いて坂を降りる。木陰を探して下る事20分、途中で苞葉を見つける。
子供の頃遊んだ風車の木、早春に白いおおきな木蓮の花を咲かす。
この木の葉っぱを皿がわりにしていたんだ

暑い中歩いたのが仇になったか、疲れる。おひるにしよう、山菜そばを頼む、
そばは風味もありなかなか、出汁は関西うどん、濃い醤油味になれた
自分には物足りなかった

街中を流れる50cm巾の流雪溝に虹鱒発見、30cmはあろうかという大物。

暑くて疲れた。人の多さにも疲れた。今度は真冬に来ましょう。

<<朴葉の葉は子供の頃遊んだ風車の木の葉っぱだった。(木蓮科の苞葉の木)>>


枝の先端に花が咲く10cmくらいの大きな白い花、木蓮の花でその葉っぱに特徴が有る。水平に7枚
の葉っぱ、茎が2~3cm葉っぱは20cmは有ろうか、このすぐ下を小刀で薄皮を切りそおっと回すと、枝と
皮の間がねばねばしているので、よく回る、葉っぱは半分に切り、鯉のぼりの矢車の様に回るんです
風車の木と呼んでいたが、苞葉の木とわね。。春先に大きな白い花を咲かせて山の中でも印象的でした
木蓮科の苞葉の木、苞葉味噌にしても葉っぱの香をりが着くでも無し、想像するに山仕事で
鍋を持って行くにはかさばる、石を焼いてその上にほうばの枯れ葉をしいて味噌や野菜、
猪の肉で焼いたらそりゃぁ美味しいはね、山仕事の料理だったかな?甲州の放蕩なべ、
畑仕事に小麦粉と鍋を持って行き小麦粉を鍋でこねて湯がかないでそのまま畑の野菜
を煮込む、越後の笹団子、笹の葉にもち米を包んだちまき、腰にぶら下げた上杉謙信の兵隊
の兵糧米、笹の葉の解毒作用で何日かはもつ、更にヨモギの葉を粉にして団子に甘い
餡子を入れ苦味をけすと成った。とまぁ創造しました。物のない時代、創意工夫で生きて来た。





<<冬の2月に奥飛騨に雪を見に出かけました>>


2017/2/7,8 新島々から道路は白く標高が上がるにつれて道路は圧雪で真っ白に
安房峠をクネクネと越えて、高山側に抜けると更に雪は深くなる。

長野から奥飛騨えは昔なら野麦峠越え、今は安房峠越えでトンネルずたいで簡単に行ける,

標高は1200mは登る、新島々から高山まで70Km

乗鞍岳と焼岳の間を越える山岳道路、トンネルで実現した様な物

ダム湖を見ながらバスは標高を上げていく

道の駅でトイレ休憩、つららが下がっているのでー3℃、車外がサブィ

道路に圧雪は無いが凍っているんでしょう。


ダム湖の水が凍ってその上に雪が積もっている

ー3℃の表示が、寒いから凍ってると無言の表示

釜トンネルが見えるが閉鎖中、左に上がって行く

平湯峠は登らずトンネルで行く

平湯のバスターミナル、岐阜か長野かの分かれ道

この先はトンネルで高山に

日本海に近づいたせいか雪が峠より多くないか

相変わらず気温はー表示

除雪車が大活躍おかげ様で道路巾が確保されてすれ違いに止まらないで済む

切り立ったガケ、何やら不安になるのわ私だけかな

除雪車がこの道だけで4台め相当降っているんだ

ベテランのハンドルさばき、にアクセルかげんで無事高山に辿りつく

17時までにホテルに帰るように、国分寺と陣屋、造り酒屋をめぐる

国分寺の大銀杏、回り10mも有り樹齢1200年とか



三重の塔


陣屋に来た、,

中国語がとびかって日本では無い見たい、古い日本の歴史がわかるのやら


かしこまった、お女中

お客をもてなす、茶室

雪吊

応接間,個々の部屋はせまいのに廊下はたたみが横に敷いてある


陣屋を後に造り酒屋に向かう

枯れ切った,杉球

帰れなく成った、猿だそうな

飛騨の里、ライトアップ。白川郷と勘違いしていた

この日のハイライト。よかった。。


フラッシュはたかづ夜を強調したつもり



予想に反して、良かった、これが無かったら,さっぱり面白くない旅になった

9階に大浴場、脇に露天風呂、ぼたん雪が降る中、雪見風呂としゃれこんだ
朝は雪だったが、白川郷に着いたら青空に

冬の白川郷に来た、ライブカメラはずっと雪空だったが晴れた。

夏に来た時、雪の白川郷が良いだろうと感じてやって来まし。晴れの白川郷の眺望。

名主の家


町並み、メインストリート

3代つづいたお医者さん。

マイクロバスで展望台に行って戻ったら40分もかかって仕舞い、バスのしゅぱつに遅れる



<<合掌造りの構造>>



<<生活の基盤は何だったのか?マタギに木こり、炭焼き、
それもやったでしょうが、煙硝造りと言う他では出来ない事をやっていたんです。>>

室町時代から明治20年頃まで300年は煙硝造りをやっていた。五箇山は加賀藩の特区で
年貢免除。白川郷は江戸幕府の直轄地、その前は浄土宗のお寺の直轄地、山奥の秘境で
こっそりと黒色火薬の原料を作っていたんです。浄土宗の信者が暮らす秘境たった。


バクテリアがアンモニアを分解して硝化細菌ニトロソバキターとニトロバクターを作り出す。
蚕のふんを使う酸化して土中のカルシウムが硝酸カリウム(煙硝)に成る。
1にひえガラをしく
2に蚕のふんと上田土の混合
3に草、蓬をしく、その上に土と蚕のフンを混ぜて物を敷くをを繰り返して敷板のした6寸まで
4むしろ、こも、をかける

おおきな2mくらいの囲炉裏の回りに1坪くらいで深さ2.7mの煙硝床を四箇所位つくる


5年過ぎて10月中ごろ、煙硝土を取り出して、土桶に入れ水を加える
翌日、ノミ口から埋めおけに水をぬく、一番水桶にくみとり、さらに土桶に水を入れ
二番水を汲み取り一夜置く、これを繰り返し水の色はうす赤くなる。






(灰汁煮)
釜に一番水を入れて、一石が三升になるまで煮詰める。小垂桶(灰桶)
の灰を通して小垂溜め桶で受けると醤油の様な色に、






(小煮)
翌日この水を小煮なべで3升が1升5合に成るまで煮詰める。










(そうけと敷き木綿)
木綿の布で濾してゴミ、不純物を大雑把に取り除く,一晩ねかせてあめ色の
煙硝の結晶が桶の内側に付く、えさせ鍋の煙硝を乾かして<せっかい>
でそぎ落とすと砂のように<灰汁煙硝>






(精製行程)<中煮と洗いさらし>
釜に手桶で4杯の水と灰汁塩硝24貫目入れてかくはん溶けて赤壁色に
煮立ったところでゴミ澄み桶へ汲み取り、桶のノミ口から出てきた水を中煮溜め桶に受ける
3日ほどすると、溜め桶の回りに五寸釘ほどの結晶が着く、これを金のへらで書き落とし清水で
洗いさらす、









結晶以外の水を釜で半分になるまで煮詰めるとまた五寸釘状の結晶は取れる








(上煙硝の精製)
上煮釜に手桶4杯の水を沸かして24貫目の煙硝を入れ煮立ったら上煮えさせ桶に







上煮えさせ桶の上に丸そうけお置き、木綿7枚と中折紙1枚で煮えた塩酸水をろ過して7日ほど置く
桶の中に透明な六角柱状の結晶が出来る。最上質上煮煙硝ができる







さらに7日おきノミや木づちで取り出し、20日ほど天日干し乾燥させたら上煙硝ができた
残った水を半分になるまで煮詰めて結晶になったものが中煙硝となる








出来た煙硝は木箱に入れて封印されて人の背中で背負われて消費地に。煙硝を塩硝と書いて
塩だと偽って運搬していたんだそうな。山賊予防かな。平家の落人が先祖というのもまゆつば、
明治の中頃にチリ硝石が輸入される様になると終焉を迎える。チリ硝石は海鳥
の糞が大量堆積して自然発生てきに硝石が出来た。第1次世界大戦の前にドイツ
で化学製法で硝石がつくられる。







   


釜トンネルの入り口まで帰って来た。


バスツアーのガイドが安房峠で、野麦峠(小林茂美)の昭和43年発表)の解説をして奥飛騨地方の貧しさ
を強調していたが、養蚕をしていた地方はどこでも有った話だ、製糸工場に出かけて少しでも現金収入
をと勤めに出て住み込みで働いて、過酷な労働に負けて結核に成って帰って来たそうだ。母曰く工場に
行かなくて済んだのわ裕福な家だけでみんなが行った。私は行かなかったがと言っていた。
(母親の実家は田舎の地主、兄は大学に行って弁護士).昭和の初期の話。明治政府は富国強
兵で絹織物を輸出して外貨を稼いで、軍艦をせっせと買い込んで日露戦争で勝ったから、さぁこ
れで行くぞというので、社会整備を忘れて軍隊の増強に励んで、日本人の多くは貧困にあえいた
今の北朝鮮のようだ、軍隊が1番、国民の生活が何番目は眼中に無い。。。
,日本中に有った話なのにことさら 奥飛騨が貧しくて貧しくてそうなった様な話造りはあまりに
も無知だと思う、失礼な話だ、、