<<玉川上水を羽村取水堰から久我山まで土手をサイクリング>>

仕事で立川の砂川当たりに出かけて玉川上水を発見して、ひょつとして江戸時代に作った
ものかいな?と興味がわいて調べてみたら正解。多摩川の羽村堰から運河に成って井の頭の
先、久我山の高速の下で消える。この間30km、自転車で玉川上水を下ってみる。
羽村堰まで25Kは有るのがちょつと,4時起きして5時半スタート12時には完走しそうだ
台風18号が対馬のあたりに進んで15時ころから雨の予報に合羽持参でスタート


古淵から羽村堰まで30Km約3時間の予定で5:27’にスタート、鑓水から御殿峠、
医療刑務所がまずは登りの第一関門、次が高速の下までが第2関門、最大の関門は創価大学
の登り、狭い排水溝の蓋が歩道だ、その横をビュンビュンダンプが抜けて行く、とんでもない
田舎道、何とか多摩川の橋を渡ったので堤防を行く、もう安心,車は来ない、
握り飯を食べコーヒ-を1杯を飲んで羽村堰をめざす、8:17’到着


羽村の止水堰から取り入れた水の多さには驚いた。5,6m幅,深さ3mは有るだろう
大変な水量がすぐ先のトンネルに流れ込んで、玉川上水には1割くらいしか流れていない

村山貯水湖(狭山湖と多摩湖)に流れている事実を知る、大正時代から10年がかり
昭和の初期に完成したアースダム(土を固めて堤防を作る)、自然流水式、トンネルで狭山湖
に流れて行くらしい、昭和40年に武蔵野水路が出来て玉川上水の放水が止められて昭和
61年に流水が復活するまで、忘れ去られる、

狭山湖から富士山の夕景、結構な高台ながら取水堰より低いという事なんだ

水道局の敷地内の水神社

鴨に真鯉



羽村止水堰の中州の公園が1K位か、その後は道路を熊川まで、水上公園を探してうろうろ
拝島駅手前で上水の土手にこの先は外れることわないが、細いデコボコは変わらず

とおる事がはばかられる遊歩道

登山道の様な遊歩道、道路からの高さ1mは有る、天王橋まで来た

玉川上水が川の下をくぐる、珍しい、来た道で1番の桜の大木

モノレール玉川上水駅、この先で野火止用水へと流れは変わる東村山浄水場の処理水になるのか?

野火止用水。玉川上水が開通した2年後に完成した。ほとんどが暗渠化してしまう
東村山浄水場の処理水を清流風に流している.玉川上水の水ではない

気が付かなければ清流の湧水、なかなか憎い演出、昔のままの素掘りの土手、こんなに
深く掘ったのか?

左岸は何もしていないから昔のままか?素掘りのまま390年持っていたのかな

小金井街道、昌平橋。大正時代はこんな風

相変わらずのガタガタの遊歩道、疲れた。土手は残った


もみじが植えてある、紅葉の時期には色付きれいになる、そこでもみじ橋。武蔵野浄水場。

三鷹を過ぎるとこんな事に成る。ついに開溝は終わり暗渠になる、中央道高井戸降口の辺り

浅間橋は無い、暗渠になり名盤も無い。12時18分にたどり着く
帰りは川沿いを走り、井の頭公園から一般道を甲州街道に出て稲城目指す



稲城から尾根幹線に出たのが悪かった、気の遠く成るような上り坂、疲れに追い打ちを
かける若葉台の登り、なんだだ坂こんな坂。足がつりそう、140mの標高を登る。
帰り着いたのは15:18’。


土手に木がぼうぼうに成っているのを少し間引いて川面が見えるようにするとだいぶ
気分の違うので東京都の整備事業が10年越しで行われるようなので期待してます。


(玉川上水の歴史)
江戸時代の初期は小石川上水、赤坂溜池を水源にさらに神田川上水(井の頭池、全福寺池
妙正寺池の3つをつないで)の水で飲み水にしていた1590年(天正16年)
三代目家光の時代に参勤交代の制度で人口15万に膨れ上がり水不足になる(1609年)
寛永14年
1625年(承応元年)に玉川上水計画、翌年4/4~11/15の8ケ月の短い期間に素掘りながら
羽村取水口から四谷大木戸まで43Kmの水路。標高差92mを完成させる


1653年に開通した玉川上水の終着点は四谷水番所(四谷大木戸)ここから江戸市中に
配水、明治9年(1876年)に廃止されるまで220以上使われていた。四谷四丁目交差点
の角に有る四谷区民センター脇にある四谷大木戸門跡の碑





((野火止用水 桜上水から分岐して野火止(新座)の飲料水、灌漑用水に))

平成29年3月18日に仕事で新座の西堀に行くと水道道路の脇の堀切がなにやら訳あり
ふと野火止用水?帰りに地図を見るとピンポンまさにその通り、小金井街道で左折したが
府中街道の取り付けまで開口になっている。反対方向は正林寺、すこし先で川越街道先の
新座駅で開口は終わり、

桜上水から新座の平林寺の先、川越街道まで

古地図ははっきりとは読み取れず

西堀からの帰りにパチリ、用水と言っても細い浅い、

この辺から反対に向かうと遊歩道が有り、平林寺までが野火止用水として整備されている様だ

新座市のH。Pから拝借、

新座市のH.Pのつづき




総門から本殿までの建物は禅宗伽藍の代表的な配置で、一直線上にある
老中、松平信綱の菩提寺、関東ロームの渇いた台地で雑木林の野火止に飲み水や灌漑用水に
3千両に費用を掛け24kmを幅三間、深さ1間の開溝を掘る。この水で開墾もするし周り
の村々にも給水、

1 野火止用水の本流

2 総門、扁額を金鳳山

総門から山門の参道

4  半蔵坊感応殿 寺の鎮守で寺に仕えた半蔵坊をご神体しその霊験は天狗

5 半蔵門  半蔵坊感応殿に続く正式参拝用の門、年に1度開く

3 山門、扁額を凌しょう閣

5 山門の横を流れる野火止用水の分水

6 山門  350年の風雪に耐えている、左右に金剛力士像 三門とも書かれ三つの解脱門
空、無想、無作を表し門をくぐると解脱する

7 仏殿  本尊の釈迦如来坐像、仏前前に配された左右1対の座禅灯篭
 

8 仏殿の扁額 無形元寂寥(かたちなくしてもせありきりょうたり)悟りの境地

9 載渓堂 日本に書法、篆刻を伝えた独立性益禅師を祀る

10 鐘楼

11 本堂の横

12 本堂正面 本尊は釈迦如来坐像、達磨大使、大権現菩薩慰い像

13 本堂中門  扁額 平林禅寺

14 片割れ地蔵  元は1対の地蔵が半分に割れた

15 放生池  真ん中に弁天堂

16 下卵塔 卵塔は禅僧の墓、 



18 増田 長盛の墓

19 前田 卓の墓



21 境内を流れる野火止用水の分流

二人の働きにより玉川、野火止上水の大事業は成功する。



22,23,24,25 松平家廟所 丸い形のお墓が多く見られる。禅宗の卵塔の影響か?

26 本堂から廟所の参道

27 松平伊豆守信綱夫婦の墓



松平家の霊廟の灯篭の年号を見て江戸時代の年号が気になり調べる。
   (明治、大正が見あたらず、昭和6年で終わっていた、松平家の不遇の時代か??)


江戸時代年表
1600~ 1614    慶長

1615~1616   元和

6 1624~1643   寛永 

1644        正保 

1649        慶安 

1657       明暦

1666~1665   寛文 02~05   

1673~1673  延宝01~11

1685       貞享

1688~1702  元禄07~15

1709~1710  宝永

1716~1732  享保 

1742       寛保

1758       宝暦

1767       明和

1772       安永

1782~1787  天明

   1789~1800  寛政

1808   文化

1825~1828  文政

1833~1843  天保

1844       弘化

1850~1853  嘉永

1854~1856  安政

1860       万延

1862~1863  文久

1864       元治

1865~1867  慶応

江戸時代は終わり明治になる



野火の見張り台


すみれの群生、裏に回れば雑木林を伐採して紅葉の植林、紅葉に力を入れているらしく、紅葉寺と言われそうだ


歴代塔所   平林寺の歴代の住職が眠る墓所


出口に近ずく、椿と桜、咲く時期が違うような気がするが、珍しいので


藁ぶき屋根の物置?大八車に水車の歯車、杵の上げ下げに使ったのか



平林寺はこれでお終い。お寺さんはどこも赤が好きな様で、紅葉が大好きですね。
紅葉に時期が狙い目だった様です。向かいの駐車場でソフトクリームを食べたくなるほど
暑かったかった。ついでに山菜そば食べて帰る。8ケ月ぶりにバイクにまたがり、遠出をした
1日でした。桜をみたいと来たのに少し残念なので帰り道に神大寺植物園を訪ねて、桜を満喫した