横浜、本牧に有る三渓園、1度は行ってみたいと対岸のトヨタ埠頭から20年以上見ていた。歳も取り70近くなり 皇居をの城門めぐりもした
次は三渓園に行って見たいと思っていら新堀さんが実家の近くなので案内しましょうと言う事で、2019年2月7日 に実現しました。





横浜駅から市営バスで三渓園入り口バス停で降りて密集した住宅街を少し歩くと入り口、横浜の住人なら200円、
相模原の住民は神奈川県民にも関わらず門前払いで700円の通常料金でした。


海べりの道路からは庭園の中は想像できない位全くの別世界、最初に作ったころは全くの田舎の漁村だったことでしょう それにしても広い広い、個人の持ち物にしては別格、今は公益財団法人
薬師池よりは格段に広そうだ.。歴史的建物、お堂と茶室。茶室は本当に細い柱で作られた建物、大きな屋敷も茶室の延長線上に有るような数奇屋作りで繊細というかきゃしゃ
小川が幾筋も流れている。こんなに上手く湧き水が出るものかと思いきや、下の大池からポンプで汲み上げているとの事


パンフレットに有る絵、左の桜が満開だといいですね、手前に菖蒲が6月頃から咲きそうです、藤棚が有るので6月かな、紅葉の時も三重の塔の下が紅葉になりそうです

さて、右回りで庭園巡りをしました。まずは八つ橋、橋は1m位で木道のほうが立派、下には何が植えて有るのか春に成ってのお楽しみ
70のじいさんに見えますか?楽隠居しているとこんな風に成れる、高齢化社会の鏡、、癪に障る足の長さダ

梅が咲き始めているがちょっと寂しい

三渓園天満宮

燈明寺本堂、京都に有ったお寺、室町時代 康正3(1457年)建築、移築は昭和62(1987年)瓦葺きの屋根

鎌倉の東慶寺仏殿、鎌倉に有った縁切寺、明治中頃まで女房から離婚ができなかったので鎌倉まで行って尼さんに成って バカ亭主から逃げたが,
明治に成って法律が出来て協議離婚が可能になったが、お寺は没落、廃寺に、茅葺屋根
手前に白川郷の合掌つくりと成っていたが、現存の合掌つくりとは違い過ぎるので撮らないで通過

横笛庵 明治41年、隣の梅林と完成、メジロが梅の花の蜜を吸いに

その下に水仙が満開、水仙は早春の寒さに負けずにけなげに咲く花、雪国でも南向きの窓辺に植えて
おくと3月の雪解けのしずくで地べたが出るとにょきにょきと頭をもたげて回りに残雪が有っても花を咲かせる
はるつげ花というところ

梅林の奥の横笛庵、梅が古木のせいか花と花の間隔が空き過ぎて写真にはむずかしい

寒露橋と横笛庵、小川のせせらぎ、本当に良くできた庭園、自然の中に居るような錯覚に落ちる. 小川の飛び石か踏み石、石ずたいに川を渡り茶室に行ったんでしょう

林道庵、

三渓園の入り口の反対側まで来た、この上に三重の塔が有るが山の高さは20m来かな

黒い鴨なんて勝手な事を言っていたらキンクロハジロという渡り鳥、茶色も同じ鳥でめす


燈明寺の三重の塔、今は廃寺に成ってしまったが、京都、木津川に室町時代に(1457年)建てられた

山を下りてくると案内板が、外堀が有った様だ、今回は回る余裕が無い

白梅と緑鰐梅(リョクガクバイ)(中国梅)鶯色のうめの花、初めて見た

海岸門、京都の西芳寺に建てられ江戸時代の建築された。鬼瓦と桃の飾り瓦

寿塔覆堂、安土桃山時代 豊臣秀吉が京都、大徳寺に母の長寿祈願のために建てた生前墓(寿塔)

帝謝(本当は言ベンが木へん、出てこない) 橋のなかほどに腰掛けが有り臨春閣(江戸時代紀州徳川家初代藩主、頼宣が和歌山紀の川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘)
を池越しに見る、しかし再生工事で足場を組んでいた. この先の建物の屋根はこけら(柿と書くが)葺き屋根。

臨春閣の工事をしていない半分の建物

春草處 江戸時代の作

聴秋閣 江戸時代 元和9年建造した二条城内に、徳川家光、春日局ゆかりの楼閣建築、裏山に散策路が

名は無かったが、1枚岩を反る様に削り出した3m位の橋、何か名が有りそうだが?

一枚岩の橋、また出かけたら必ず名を尋ねよう

内苑の高台に天授院 鎌倉 建長寺(駆け込み寺)近く心平寺跡に有った禅宗様の地蔵堂を大正11年に移築

金毛窟 大正7年に建てる、一畳台目(1.8畳)の茶室

三渓園の中で一番の眺めと思ったのは私だけか。人の手による造形物ながら自然に見えるのは錯覚か?

広大な建坪の屋敷、それが数寄屋つくりでどれほどのお金がかかったことか, 全体像が撮れないのでなし

3時間くらいはかかったかな、汗ばむほどの良いお天気で結構でした。残念ながら茶室の中は見ることができない
松の枝ぶりの対比が面白い、花が無い時でも退屈させない。



茶室、数寄屋つくり、これが分からないと三渓園の価値が分からないので勉強。

数奇屋作り、  数寄とは和歌、茶の湯、生け花など風流を好む事、そこから「好みに任せて作った家」と言った意味で茶室を意味する

歴史
  数奇屋と言われた茶室が出来始めたのは安土桃山時代で四畳半以下の茶座敷を「数奇屋」と呼んだ ,, 当時は床の間。棚.付書院を備えた座敷を荘厳とする
「書院造」が確立されていた、 身分、序列を維持する役割を持った。 茶人達は格式ばった意匠や豪華な装飾を嫌い、好まれたのが軽妙洒脱な数奇屋だった、、
庶民の住宅に使われた粗末な材料、技法にこだわり無く 作る数奇屋造りが成立した、、現代では逆に特別に高価で高度な技術を要する高級住宅の代名詞に成った

数奇屋独特な意匠
書院造りの格式、様式を極力排している事が特徴。虚飾を嫌い内面を磨いて客をもてなす茶人達の精神性を反映し質素ながら洗練された意匠となってる

多彩な建材
竹、杉丸太を好んで使う。特に杉の木目が弥楊され柱、床板に多用され丸太普請という一見素朴だが、高度な技法を要する工法使われ床柱や床框に紫檀など
板材に桑の一枚板を使ったりする。壁はじゅらく壁(表面をゴツゴツさせる)に代表される土壁仕上げ、左官技法が高度に多彩になる

長押(なげし)の省略
丸みを残した面皮柱を用い長押を省略

床の間
小規模で質素、自由な建材とデザイン

深い庇(ひさし)
庇を長く造る事で内部空間に深い奥行き、静寂をもたらす

多彩な建具類
雪見障子、猫間障子、組子障子などの技法が発展した


茶室
都会に居ながら田舎の風情を味わう「市中の山居」を目指す「草庵の茶」わび茶が16世紀後半に千利休により確立、茶を飲むと言う行為を通して日本的な芸術性。
 世界観を示す茶の湯が 成立発展した。茶室は千利休確立した「草庵茶屋」から発展してきた。

茶室の条件
茶の湯の機能と雰囲気を感じさせる空間でなければならない。日本の自然を感じ取る感性を反映させたのが茶室の空間、

基本要素
露地(ろじ) 茶室の前の庭で客は飛び石を渡りながら、植裁や風情を眺めながら蹲(つくばい)で手、口を清めて茶室に向かう。一旦露地という屋外の自然を経由
して。茶室という非日常空間に向かうところに茶室への導入の面白さがある、亭主は茶道口と呼ばれる別の入り口を使う

にじり口(足に門なかに進のしんにゆう無し)難しい漢字でPCでは出てこない。60cmから70cm四方の入り口、かがんで身を小さくしないと入れない
武将も刀を外に置かないと入れない、亭主と客が身分を越えて対等な立場の非日常空間とされた


茶室の広さ
四畳半が標準、亭主1人客3人が入り茶事が行われる


11月から4月までは畳の一部を切って設置された炉で湯を沸かし、5月から10月までは風炉と呼ばれる置き型の炉を使う。


  掛け物、花などを飾る。客は茶室に入ると床の前に進み掛け物を鑑賞
床柱、床框、相手柱、落掛で構成、部材は趣きや由緒のあるものを時間を掛けて探す


  床の壁は塗り壁とし片側の壁に墨蹟窓や花明窓といった下地窓をつけたり明り取りにしたり



水屋
 亭主が茶事の準備や道具のかたつけをする部屋




以上は調べた結果です。大きな日本庭園の片隅に茶室が有るなら庭に入っただけで非日常を感じ、飛び石を渡り茶室に入ったならば別世界はま違いない.
茶室の知識を頭に入れてから三渓園に行っていたら違った写真が撮れたであろうに、また行ったらもう少し気の利いた画にしたい
三渓園のすばらしさは人工の工作物ながら自然を感じさせるところが一流の庭園建築、すばらしいの一言です。三渓は庭園内の三本の沢筋の事らしい



侘びと寂び
侘び 「貧相の不足の中に心の充足見を見出そうする意識」(日本の美意識の質素で静かな物)、万葉集の時代からつかわれていた 侘び 侘びの一文字で
, , , 無一物の茶人を表し江戸時代になると「わび茶」で論理化された。大正時代には茶道具が美術品として評価され造形美を表す言葉として[侘び」が普及した

寂び 、「質素で寂しい趣、豊かで華麗なもの」古く枯れて渋みのある静かな趣のこと、閉寂な趣を表わす様に成った。俳階の世界では物静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が洗練
,,,, , , されて自然ににじみ出るという感覚が重要な理念とされる。侘びとは相反する要素、俳句に用いられている。石に苔むして緑色になると日本人は石の内からて出てくる物に見立てた
, , , ,江戸時代以降の俳階の盛んな時代より寂びの概念が広がり侘びと結びついて茶道に持ち入れる事となった様だ。


さて30年くらい前の2000m以下の山小屋は入ると土間があり囲炉かかまど、巻きを焚いて茶釜がすすで真っ黒、50cm位の高さで板の間、正に侘び寂びの世界、
まったくの自然の中で雨を溜めた瓶から汲んだ水で湯を沸かす。今考えてみれば全く侘び寂びの世界だ。ただし街中の山居では無く、山居の中の山居だから当てはまらないか、
しかし1日がかりで3000mの山にたどり着くと全くの別世界、大きな日本庭園よりもっと別世界を感じるから山は辞められない、


三渓園の研究家と思われるH.Pを見つける 
 三渓園(前編) 

三渓園(後編)



さて関内まで帰ってきてサプライズ。明治時代の銀行の建物を店舗にして金庫もそのままに個室に使ったうなぎ屋さん



うなぎはたれで食わせるものと思っていたが、たれは脇役でうなぎを味わうという鰻重をいただきました。なかなかのお値段できょう縮しながら、酒まで飲んで、ごちそうさまでした。。。






5月23日、三渓園の蛍の夕べに出かける。



三渓園で蛍の夕べが5/17から開催されて蛍が光っているらしいので、小学生の頃、見た切りだったので見たいものだと、新堀さんを誘って出かけました。寒露橋の先の水の流れだす所が蛍の宿
残念ながら蛍の乱舞とはいかずチラホラ、見物人の方がおおくて驚きました。田んぼ一面に蛍が乱舞する様が当たり前と考えるていた自分が馬鹿でした。今や絶滅危惧種、かたくりに匹敵する。

三渓園の中で幼虫を育て、時期が来れば放して蛍の夕べを催すがはなされた蛍はそこで卵を産めず死ぬ。水が汚過ぎてこの場に住み続けるは無理が有る。写真は撮れなかったのでWEBから転載









この日の待ち合わせは相鉄線横浜駅、大和からの特急が2階に到着改札口で待てど暮らせど現れづ、15時過ぎるとさすがに心配に成り電話、
14時から1階の改札で待っているというので1階に降りたいが、大回りして駅から出ないと1階に行けないのには参った。面倒な駅だ。
とりあえず何か食べようと言う事に成ったが、17時までどこもやってない、そうこうするうちに山下公園の海べりでやっとこレストランを見つける。
新堀さんの若かりしころ奥様とデートして入ったレストランだったそうな,スカンデアという名前でもう40年は営業を続けている北欧料理、
この建物が由緒あり昭和6年製で88年も持っている。この交差点と建物が横浜の風景画に良く出て来るそうな、近代建築、スクラッチタイルの外壁が特徴。



撮れる写真が無く残念なので、艶っぽく浮世絵で締めくくり。