皇居の内掘りに有る城門巡り。


(半蔵門、桜田門、坂下門、桔梗門、大手高麗門、平川門、北桔橋門、乾門,清水門、田安門)

<内曲輪>江戸時代に有った内堀の城門
竹橋門、和田倉門、馬場崎門、日比谷門、外桜田門、半蔵門、田安門、清水門、雛子橋門、一橋門、神田橋門、常盤門、呉服橋門、鍜治橋門、数寄屋橋門




古淵から横浜線で長津田、地下鉄の半蔵門線で1時間で到着、それから歩く歩く
3時間かけて田安門まで半時計周りで城門巡りと洒落込んだ。

警視庁や通産省のビルがGPSの衛星の電波のじゃまのなりGPSの軌道が飛んでいる。
次に買い替える時は、みちびき対応のタブレットにしたい。
(半蔵門からスタート)





幕末か明治初期のガラス乾板写真に色を付けた物らしい、



服部半蔵、伊賀の忍者、甲賀は信長の時代か、

(かなり歩いて桜田門に)






城門だけで2,3トンは有りそうだ。木と鉄の組み合わせ。
4本の柱を金の枠で束ねて強度と耐火?の工夫か



明治の初期の写真か馬車に御者の帽子が当時を偲ばせる。


中に入ると二重橋のある皇居前広場、大名の上屋敷跡、江戸初期は
日比谷入江で船で荷物が入つて来たので倉庫群だったようだ。


新任の駐日大使の母国からの信任状を皇居の天皇に捧呈する儀式のために希望すれば東京駅の馬寄
から皇居まで馬車が仕立てられて送迎される。大正時代の馬車の時代絵巻が、馬のヒズメの音が何とも良い
漆で輝きを増している2頭立て馬車が2台、馬が7頭、パトカーが4台、日本の伝統と格式が十分伺える。



となりの 桔梗門 通行止めのため大手門まで迂回。


明治初期か洋傘を日傘に、この時代の庶民は唐傘で竹て作った骨組みに柿渋を塗った和紙
を貼って雨具にしていたから,かなりハイカラだ、しかし屋根にはペンペン草、
草ボウボウ、柵は崩れそう江戸城は崩壊しそうだ。

坂下、桔梗門は通行止め、大手門から入場。
(大手高麗門、観光客で長打の列、持ち物検査をしてから入場)





江戸時代中期の石垣は伊豆半島や房総半島から大きく切り出して綺麗に成型隙間なく組み上げた。





江戸時代初期の石垣は手元の材料の有効利用して積み上げた。
積み上げた石と石の隙間は小石で埋めるという手法が見られる。

(平川門は中から皇居東御苑を通って下り写真を撮る。)
(竹橋門)

(北桔橋門、ここから皇居を出る)


(通行止めの乾門を道路から撮る、道路の先は北の丸公園)



(清水門)



(田安門)

現存する門は全部同じ作りで三つ目ではてと気が付いた。


(馬場崎門)

江戸城内の様子、ほとんど平屋で屋根付き廊下でつながっていたのか、


天守は1657年の明暦の大火で焼失、再建されず本丸の富士見櫓を実質の天守とした。

武蔵国豊嶋郡江戸に有り、平安から鎌倉時代に江戸重継が築城、1457年麹町台地東端
に太田道灌が築城60年後の安土桃山時代、秀吉の小田原攻めで手柄を立てた家康が関八州を
与えられ駿府から1524年に入城,当時の江戸城は荒れ果て大手門の北寄りに茅葺屋根の家が100軒
あまり、城の東は低地で海水の浸み込む茅原、西はすすき野原から武蔵野台地、城の南は日比谷の
入江沖合は砂洲、ここから運河を作り、石垣を築き高台の土、内堀、外堀の土を積み込んで区画整理
をして広大な江戸の町を100年位かけて、世界でも有数の800万都市を作った
<



外堀の門は現在は無いので明治初期の写真で再現


<外曲輪>
山下門、芝口見付門、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違見付門、
四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門、浜大手門、
現在の東京駅前から”の”の字状に左回りで450年前の歴史探訪。

(一橋門)

(幸い橋門)


(数奇屋橋門)

(呉服橋門)

(鍜治場橋門)

(虎ノ門)

(蓮池門)

(市ヶ谷門)

(牛込門)」

(八ツ屋門)

(山下門)

(上梅林門)

(下城門)

(浅草門)






徳川家康を神様に祭り上げて出来た神社が東照宮、上野東照宮の牡丹園。



2019年2月22日に鶯谷駅を降りる、左手の塀の中は寛永寺の墓地、時代劇の中で牢屋が火事に成ると罪人を解放して2日後の18時までに寛永寺
に集まれば罪を免除するってのが良く出てくる寛永寺,上野公園の隣、徳川の歴代のお墓が地図には有るが、非公開、と分かったが、まぁ寛永寺の
見れる所を写真に撮りましょう。何と午後の予報の雨がポッリポッリと降りだす。




三渓園にあった、中国梅がここにも珍しいので入り口に植えて有るんでしょう。



広い公園でタブレットのGmapで現在地を確認しながらでも間違えて逆方向に行ったり、やっとこ東照宮の入り口の門にたどり着く
慶安四年四月十七日に東照宮が出来上がりお披露目された。この石灯籠を奉納した大名か?身分が一杯あったらしく面倒な字が書いて有る


青山因幡守、藤原宗俊。とあるが青山宗俊なら出て来る、結構波乱盤渉の家系で面白い、

幕府の重臣、青山忠俊の長男として生まれる。家光の勘気を受け蟄居、相模の国、高座郡に流される。
11年後に再出仕、書院番頭に成る、武蔵相模の国で3000石が与えられる。
更に10年後信濃小諸で27000石が加増され三万石に成り小諸藩主となる。
更に16年後、大阪城代に成り五万石の大名に成り、65歳で没。


門をくぐると直ぐに左にとってつけた様なボタン園の入口、昭和55年に出来たらしく、参道より狭い敷地につずら折れでうねが作られ牡丹が
植えられていた。丹精こめて育てているんでしょう大輪の花が咲いている。白の花びらが特に薄くて雨でだめに成りそうで藁の傘を差しているのかな?

牡丹園に入るにはお金が必要だ。
































































































牡丹園の後半は五重塔が借景になりなかなか良い

和紙の材料木の こうぞ、みつまた、がんぴ、これががんぴの花、花は蜂の巣の様な形何やら暑い所の花の様だ。

梅もこの時期、咲き始めている。


早咲きの桜が咲き始めている。まぁそんなに咲き急がずとも。








位置が北向きのせいか、入口の南向きの花より少し遅れている様で今が盛り、見ごろで良かった。




これで牡丹園は終わり、一方通行で戻れない。



大野従松平但馬源朝臣成修、<老中>幕府の将軍に直属して国政に当たる最高位。
その割には灯篭の刻印が下手過ぎる。字を読めない職人が絵を見様見真似で刻ったのか?

銅灯篭は御三家の寄進、しかし刻印が読み取れない。


この建物は江戸時代に建てられてから地震や空襲をかわして生き延びて私たちの目を楽しませている。

観音開きの大きな扉の両側、立てに小さな龍の彫り物が、頭を下にしている、俗に言う実るほどこうべを垂れる稲穂かな、に成るそうだ。
夜な夜な忍ばずの池に水を飲みに行く龍。

すかし塀、正面は上下に彫り物が施されているが、横面は上だけ、中から見ると上下の彫刻が有る。

東照宮の透かし彫りを中から見るのにはお金が必要だ。









うるしを塗ってから金箔を張る、大変な作業で、金箔とはいえこの広さ、何キロも必要だ。









一枚岩で作った石の鳥居、(厩橋城主 従四位下 酒井雅楽頭忠知)と書かれているが老中大老、酒井忠世奉納に成っている
厩橋は隅田川の橋では無く、群馬の前橋の古称、


お化け灯篭、日本三大灯篭、京都南禅寺、尾張熱田神宮、上野東照宮。高さ6.06m、周り3.36m、重さにしたら4トン位有りそうだ。全部、佐久間勝則奉納。
佐久間家は鎌倉幕府の御家人。三浦氏の一族、戦国の乱世を知恵と武力で生き抜いて江戸時代に一万石の大名に成る。
織田氏の家臣佐久間盛次の四男として1568年生まれ。柴田勝家の養子となり佐久間成政の娘と結婚、婿養子に成る。
1585年義父成政が秀吉に降伏すると娘を離縁兄と後北条氏に仕えるが秀吉が北条氏を滅ぼしてしまったので潜伏していたが、
奥山盛昭を通じて秀吉に召し出され蒲生氏郷への付属を命ぜられる。伊達政宗の氏郷暗殺を食い止めるが秀吉が死んでしまうと
五奉行(浅野長政、前田玄似、石田三成、増田長盛、長束正家)が家康に伺いを立てて家康に着いてしまう、関ヶ原の戦いで東軍に付く。
1607年に常陸国一万石の大名に、大阪夏の陣で手柄を上げ信濃長沼藩一万八千石の藩祖に成る。戦国時代を才覚で生き抜いた。
その後80年が過ぎ3代将軍、綱吉にお小姓に召し出せ(人質の様な物)と命じられるが母親病気と言い訳をして改易に成り滅びてしまう



上野駅の公園口、近くて便利でもただただ広い、中は歩くしか無いので年寄りには難義だ。