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よこやまの道。奈良時代(600年)の古道, 交差している鎌倉古道(上の道)

尾根幹線と並行してよこやまの道が東京都により遊歩道として整備、道標もきちんと有り迷わない。

町田の南多摩葬祭場から尾根幹線に浄水場の貯水タンクの手前から道標に案内されて

房総半島も見えるが写らない、赤とんぼが柵に



やぎの草刈り隊が大活躍

民話(昔ばなし)が実話と証明された石塚が有った話




古道の交差点、ながら人間が好き勝手に造成してしまい今は無い






鎌倉時代1200年代の話で900年も前の話、大昔から人が生活をしていたのかと思うと感慨深い、
多摩ニュウタウンと言う名前から想像すると誰もいない山林を昭和に住宅にしたのかと勝手に想像したが、
いやいやそんなこ事は無い街道が有り当然人も住んでいた。

大妻女子からみなみのまではゴルフ場と尾根幹線の間を普通の道を行く



みなみののキャノンのラグビー場の脇の道は雑木林の中を進む




多摩ニュウタウン市場までの林間コースが標高も有り良かった


鎌倉街道は多摩川の北側の一の宮に渡し船が有り渡ると関戸の関所それから愛宕の切り通(愛宕団地)から貝取りで鎌倉街道、
この道を避ける為、一本杉から小野路宿に通じる鎌倉裏街道、近藤勇が小野路の大地主の小島家に用心棒の出げいこに使ったという
鎌倉裏街道、小島家は泥棒、強盗から守るため用心棒を雇っていたのか、年貢の取り立てに脅しをかけていたのか??




標高200m位かな、高台の木陰でお昼、山での定番、カレーヌードルにソセージサンド



鎌倉街道が町田から乞田に通っている。1100年頃から有った主要街道だった様で、源の頼朝、新田義貞、足利尊氏、上杉謙信と通ったらしい




平安時代の万葉集にうたわれた「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山道 歩ゆら遺らむ」、西暦755年(天平勝宝7年)
宇遅部黒女(うじべのくろめ)が読んだ。夫が防人として九州の筑紫に派遣される時に歌ったとされている。
結構な位の役人だったんでしょう。奥方の教養からうかがい知れる。奈良時代は九州を太宰府が治めていた。
3年の期限で徴兵され、高尾から大月、一の宮御坂、諏訪、伊那、尾張、奈良、大阪と徒歩で3か月位かかって
たどり着き(難波津)の港から船で太宰府に赴いたようだ。朝鮮から軍隊が対馬や隠岐つたいに攻めて来るので
防戦の為に駆り出された。生きては帰ってこれないものと本人も家族も覚悟の別れをしたものと思われる






丸山城址、のろしを上げる出城、城というより見張り小屋、これを公園にした。

家を10時前に出て13時に到着、そんなに疲れたと言う事は無かったが、休んで喉を潤してさぁ帰ると言う事で
帰り尾根幹線の歩道を走る、下り坂のほうが多くて快適に薬師池を過ぎて今井宿の交差点でカメラとタブレットが首に掛って無い事に気付く、
丸山城址公園のベンチに忘れた!!大急ぎで引き返すが今度は上り坂、なんだ坂こんな坂、最後の階段を自転車を抱えて登、あしがつりそうだ15分で戻るとベンチに
カメラとタブレットがあった。。。良かった。足は疲れてしばらく休むが藪蚊の攻撃で退散、だらだら漕いで16時に到着、70直前の脳みそが低下していた




鎌倉古道(上の道)


町田の野津田、小野路の丘陵地帯が東京都の緑地保全地区に成っている為、にしえの道が残っている


鎌倉から高崎まで作られた上の道。昔の街道はほとんど無いが神社、仏閣が残っている地域をつなぐと道が想像できる。
鎌倉から町田まで境川の左側に道は有った様だが市街地に成り面影すら無い。さて町田の菅原神社の小高い丘に井出沢城跡、

<井出の沢の戦い>鎌倉幕府が倒されて室町幕府が誕生した年に、信州から南下してきた北条時行と足利尊氏の弟の足利直義の討伐隊との戦、
  .  .  . その時は北条時行が勝ち20日間の天下を取るが直ぐに破れてしまう。出沢城址はほとんど謎のまま不明、菅原神社は室町時代に建てられた
<宏善寺>


日蓮、  鎌倉幕府の逆鱗に触れ佐渡に島流しの刑 に処せられ鎌倉街道を佐渡に向かって引かれる途中にこの寺で一夜を過ごし、公善寺と名を遺した
, 、 佐渡に行くには高崎まで鎌倉街道を行くが 三国峠はこの時代には無かったことでしょう。長野方面に碓氷峠を越えて佐渡に引かれて行ったのか、
, , , 大変な難行苦行です。1271年(文永8年)日蓮53歳、それにしても立派で広い境内、裏山は墓地、檀家が裕福なせいか大きな立派なお寺!

鎌倉街道とされる道はお寺の下を流れる小川に沿って有ったらしいが、先で暗渠で蓋をされ上はせせらぎ公園風な遊歩道、そのまま進んで今井宿の交差点
コンビニ脇の住宅街の細道をダリア園の案内に導かれ坂道を登ると、鎌倉古道が現れる。そこに井戸の跡と石碑。林の中を掘割風に削られた古道。
鎌倉時代のままの道、

この坂の先に鎌倉古道が有り、やぶの中に掘割状の山道が、

鎌倉古道の石碑、鎌倉幕府討伐隊の新田義貞が掘らせた井戸跡。更に続く鎌倉古道
1km位で住宅街に出てしまう鶴川街道を横断して右にお寺、左に戻って野津田公園歩行者用道の案内板、立派な道は直ぐに無くなり、林間の小道、


昔の鎌倉古道、いつごろまで幹線に使われていたのか?昭和の初期は使っていたでしょう。

華厳寺から戻って100mも歩くと歩道は無く成り、鎌倉時代の鎌倉道


近年に見つかった鎌倉道、いつ頃まで使っていたんでしょう?東京都の緑地保存地域のお陰です。
鎌倉古道は重要な軍事道路、土盛をして水はけを良くするのが今の道、が逆に掘り下げて掘割にしている
尾根筋は避け直線的に道を作っている。林で見えにくくさらに掘り下げて隠れるように、正に軍事道路

陸上競技場を横断して鎌倉古道の切通を下ると江戸時代に家康遷霊の為に鎌倉街道を整備して道案内の一里塚


<万松寺>寄り道して小野神社から山の方に進む、お寺から小野城址になかなかたどり着かず苦労する、

小野城は小野路の鎌倉街道の監視するため小高い丘に建てられた。今は木立にさえぎられている。城主は小山田氏は町田に地名を残して今は滅亡

小野井戸 今でも湧き水は枯れることは無い様ながら水が濁ってる。何で濁ってる?



小野井戸は小野城の生活用水で大切な湧き水ながら、小野小町が目やみを直したというが湧き水は濁っている。不思議だ

流れ出る湧き水は濁っている、不思議な湧き水だ、しみ込んだ雨水がろ過されて出てくるのが普通なのに
どうして濁って湧き出るのか?まぁそれはさておき小野路に下る予定が山道を間違いう

さて小野路に戻り途中に戻り高札場先の関谷の切通し。鎌倉古道の切通しを現代に使って恵泉女子大学の裏手から貝取団地を下る

関谷の切通し、鎌倉古道の路面を簡易舗装して掘割状の切通はそのままに現代で使ってる。


恵泉女子大の裏から貝塚団地の2車線道路が鎌倉古道の筋道、多摩ニュータウン通りの1本裏の旧道が鎌倉道


関戸の木戸柵跡

石碑の横の細い道を50mも登るとお寺の山門

分倍河原の戦いで一度は勝った幕府軍、つぎの日の16日には援軍を得た新田軍に押されて敗走、小高い丘と大栗川こ挟まれたこの地
20万対10万の軍勢が戦うが余りにも狭い、屍が所狭しと転がった凄惨な状態だったと想像、幕府軍は敗走に敗走して
幕府軍の反撃もここまで鎌倉に敗走、古戦場の碑が無いのでただ逃げただけか?6日目には鎌倉幕府は倒されてしまう。

分倍河原の戦いで新田義貞に敗れた北条時宗の腹心の横溝八郎がこの地で戦死

((家康霊柩渡河待場 石稲荷御尊柩御成道))
関戸の古戦場碑の写真を撮っていたら前のバス停の60台男性がこの碑の裏に横溝の戦死の碑が有ると教えてくれる
さらに先の大きな木の下で家康遷霊の行列が休んだ」と案内までしてくれる。行列は3日係りで府中にたどり着く


<関戸の渡し>


多摩川に橋が架かったのは第二次大戦前の1931年(昭和11年)橋を作り出し1年で完成、
それまで両方の村が渡し船の営業をやっていた。 渡し賃 ,人1人3里 馬6里 人力車6里 水深5尺で川止め







多摩川を渡って分倍河原の古戦場跡に



新田義貞率いる討幕軍が分倍河原で負けて狭山の堀金に敗走するが北条方は追走しなかったが。これが後に鎌倉幕府が倒れる基に成る
5月15日分倍河原で敗れ敗走するが、三浦氏の一族6000騎の援軍が駆け付け16日には関戸の戦いで北条勢を打ち負かして追撃して6日後には鎌倉幕府を倒す

鎌倉幕府の討幕に大活躍の新田義貞は室町幕府が出来て足利尊氏が執政を行うが要職を与えず20年後、
三男が不満を爆発させ武蔵野合戦で敗れ越後に逃れるて表舞台から消える。


<大國魂神社>

源頼朝が今の欅並木の苗木を寄付して現在に残している。家康の時代は鷹狩りの宿をこの辺りに作っていた

分倍河原の戦いで敗れ敗走するときに国府を焼いてしまう。


神社の右横に物置の様に東照宮が有る、



<鎌倉幕府に反旗を翻した御家人(武士階級)が討幕に走ったきっかけ>
  、  蒙古襲来  、 、  



ジンギスハーン  、  北条時宗

軍船800隻  兵3万  2度の攻略に日本は何とか凌いだ。

モンゴル帝国(1206〜1634)430年の間で世界を2分する程の大帝国に、初期のジンギスハーンの時、
日本に攻めてきたが大損害を受けてから手を出さなくなったのは日本にとっては良かった。


1回目は11月、日本の流儀で戦いに臨んだ武将は集団で戦う蒙古軍に押されて苦戦、毒矢にも苦戦したが、勇猛果敢な鎌倉武士が追い返す
2回目は7月で蒙古の流儀で戦い善戦した。台風の通過で蒙古海軍の3/4が海の藻屑と化す。日本刀も弓矢も完成の域に達していて蒙古を圧倒していた


蒙古軍の上陸阻止のために2mの高さの防壁を築いて待ち構えていた。蒙古軍は中国南宋を
攻略した時の捕虜と朝鮮半島高麗の兵士を無理やり日本に向かわせたから勝てるはずも無く敗れる

戦後、御家人(武士)は戦に勝ったのだから恩賞を期待した。当時の御家人は戦で勝って土領地や
恩賞を当てにして戦っていた(給料制では無かった)蒙古に勝っも難破船位しかなく捕虜の奴隷
市場は無かった。借金までして北九州の駆け付けた御家人はさっぱり当てが外れた。御家人に追い打ちをかける
<徳政令>で更に悪くなる,御家人の不満がふつふつと湧き出す、後鳥羽上皇と北条氏に権力が一極集中して
政治から後家人を外すものだからもう我慢できません不満は爆発,倒幕の決起に成ってしまう


それにしてもこの時代の武士の力強さ、何を食べて2週間も野宿しながら刀を振り回して100Kmからの行軍と凄いものだ。

=鎌倉時代の武士の食事=


玄米を蒸かして食べていた様だ。栄養価は高いビタミンBが豊富な麦芽を食べていた、でも食べずらかったでしょう。
(強飯)こわいい。。今のおこわ?おかずは味付けのない焼き魚、めざしの様に干物なら有ったかも、塩さば?
裏山で獲って来たキジや猪、野うさぎ、肉もまた焼いただけ、根菜類も水煮、これらに塩(製塩は確立していた
ひしお(醤)煮豆に塩を加えて醗酵させて醤油になる前に黒い汁が桶の底に溜まって醤油、その手前の(溜り)
調味料に使い出した様だ、煮たり焼いたりしたおかずにひしお、やたまりをかけて食べたようだ。
<醤油に成る前の茶色の煮豆>ひしお、これを絞って出て来た液体が醤油、まだそこまではで完成していないが、
しょつぱい腐らない煮豆、現代の””醤油のみ”を載せて食べた様だ。通常は1日2食、戦時は5食でも食える時ドンドン
食うらしかった。それ以外は干飯、<ほしい>いったん火に通したコメは乾燥させても水、お湯で戻せば食える、
現代では登山用に有るファファ米。梅干しはすでに完成されてご飯に梅干しは野戦食だったのか?


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  徳川家康が無くなって1年過ぎたら日光に骨を埋めるように遺言を残す。四柱推命を信じてやまない家康、
日光の陽明門から夜空を見上げると北斗七星が見えて南に江戸,この位置で神に成って国を守る、まぁこんな事
で死んで神に成った家康。日光に遺骨を移す家康遷霊、神輿3、馬18頭、1200人の武者行列
(現代日光で観光用の行列)実際は1/10位の規模でも200人近い行列?が静岡から日光に鎌倉古道を通り
野津田、小野路を歩いて関戸の渡しで府中に向かった、400年前と道路の位置は殆ど違わない。鎌倉街道(中の道)

久能山から富士市吉原の善徳寺(善徳寺城跡公園が有る)3月15日出発16日泊

三島(三島城址)から小田原)(小田原城)3月16日17日

小田原から仲原(平塚の仲原城跡公園)3月18日19日

仲原から木曽か小野路で1泊という説も有り距離が有りすぎる。府中では川止めが有り3日の泊り。府中3月21日22日23日

府中から仙波(川越の小仙波。せんば城址 現在は小江戸と言われる地域の初雁公園)3月23日から26日

仙波から忍(行田の忍城址公園)3月28日

忍から佐野(春日崗という寺)佐野から鹿沼(薬王院というお寺)3月29日から4月3日と時間調整をしている

鹿沼から日光4月4日

かなり長い行列ながら1000人ははてな?




行列のほとんどの人は裸足、たいまつはどんな意味があるのか、夜は宿屋で休んだはず